Books - マサチューセッツ工科大学

新潮社から出版されていた「マサチューセッツ工科大学」を読んだメモ書きです。 書籍自体の初版は1995年9月で、2011年現在だと、おそらく絶版になっています。 新潮文庫から出版された 文庫版 だと Amazon から中古版を購入できるようです。

読後感が訳者あとがきと一緒だったので抜粋します。

「ハイテク」関連の書籍というのは、ある友人の表現を借りると、おおむね「高血圧」の表現をとっている。 騒々しいハイテク・グルーピーとは対照的に、きわめて冷静な、低血圧アプローチをとっていることが、 個人的には本書の最大の美点と考えている。

時代を順々に追ってくると、エンジニアリングから出発してサイエンスに比重を移してきたことが分かります。 一方で、最近の日本では、大学でも企業の即戦力となる人材を育成すべきだ、という論調も散見される点が興味深いところです。 「歴史は繰り返す」という意味での揺り戻しなのか、もしくは歴史を共有できていないのか、 はたまた、大学や大学院を研究機関として位置付けること自体が意味をなさないのか。 社会的な構造や役割は変わり続けるため、唯一の正解もありませんが、 大学の秋入学 (東大「秋入学」の前にやるべきこと - newsweekjapan.jp) が検討されている昨今、 海外の有名な大学がどのような変遷を辿ってきたかを学んでおくのも良いですね。

以降の部分では、気になった部分を抜き出しています。

第1章 エンジニアの欲望と動機

MIT のファッションのパラドクス:
MIT では、だれもが成功のために着飾るが、それは着飾らないことによって実現されるのである。
問題解決空間:
意思決定理論において、解答の候補を蓄積したもの。 チェス・コンピュータが次の手を評価する場合や、巡回セールスマンがルートの探索手順を洗練させること。 生物が遺伝子の特殊化を蓄積したり、組み替えて環境に適応できるようにしてきたことなど。

問題解決空間での行動の基本単位は「製作とテスト」、「デバッグによるデザイン」あるいは「計画的反復」と呼ばれる。 くだけた表現だと「いきあたりばったり」や「試行錯誤 (trial and error)」など。

第2章 バランス喪失のユーモア

全体の心理:
機械の行為者や生物の行為者のふるまいを、全体からわきおこってきたものとして、 あるいは、全体がイメージし、望んでいるなんらかの状態にむかって、現状を推し進めようとする全体の意思表示としてとらえる。
部分の物理:
行為者のふるまいを、「うしろから」全体を押そうとする、部分どうしの相互作用として感じとる。

エンジニアのみが、この両者に橋をわたす職業的義務を負っている。 エンジニアは道具をつくり、道具はこのふたつの領域をつなげ、その過程で、意図と物質の性質、因果律と意思、 部分どうしの相互作用と全体の統一的な主張、過去の遺産の保存と革新への強い願い、そして、気まぐれと夢とをむすびつける。

「仕様」というのは、「願望」を技術のことばに翻訳したものである。 (32ページ)

ハリー・ウエスト教授のことば:
わたしが知っている最高のエンジニアは、かつていちども独創的なアイディアなど思いついたことがない。 彼がしたのは、あちこちぶらぶら歩きまわって、いろいろな人間の話をきき、そして ― それを組み合わせただけだ。 彼は "創造的" といえるかね?

第3章 エンジニアの誕生

「ものごとの合理性」(fitness of things):
誠実、正確、忠誠などといった、よくある抽象的な美徳に対する敬意である。
エンジニアと呼ばれるようになっていったひとびと:
大規模な構造物は、小さな道具とは異なった動きをした。 高さ3メートルの建物に使う設計方法を、15メートルの建物に応用すれば、悲惨な結果をまねくし、その逆もおなじことだ。 都市の需要をみたすのに必要なものを運ぶ舗装道路を設計する人間は、歩道をつくるのなら無関係な、建設と維持管理の問題に直面することになる。 日常の感覚とはかけ離れた、なじみのない不可解な作用を理解でき、この種の人工物の製作にかかわることになったひとびと。

完璧なエンジニア像のためのいくつか。実地だけでもダメ。独学だけでもダメ。 :

  • 「ものごとの合理性」の感覚をもっている。
  • 明快な文章を書ける。
  • 外国語のひとつやふたつは読める
  • 青写真を描ける。
  • 専門分野での経験が豊富である。
  • 実際的な物理の知識を身に付けていること。

ウィリアム・バートン・ロジャーズ (MIT の初代学長):

  • 実用的知識を「科学原理」と「こまごまとした些事と手仕事」のふたつに分けた。
  • 正規の制度によって、科学と社会、科学者と一般市民とをむすびつけること。

第4章 思考をうながす校舎の誕生

科学者とエンジニア (69ページ):
科学は自然のリヴァース・エンジニアリングだといえるし、逆にエンジニアリングは問題解決空間の科学であり、 設計は実験できる仮説とみなせる。 科学はいまいる場所を理解するものであり、エンジニアリングはそこに到達するものである。

MIT 学長への就任のうわさがあったフリーマンが、ほんもののエンジニアはむだ話で時間をつぶしたりしない、と、 そのうわさを否定するときに使われたことば。

ジョン・リプリー・フリーマン - ディナージャケット・タイプにあらず

フリーマンは MIT 移転で校舎を新築するときに、コンクリートうちっぱなしを提唱していた。 しかし、当時はバーバリズム以外のなにものでもないとして却下された。 当時の建築は機能優位ではなく、建築家の創造性や意匠に重きが置かれていた。

エンジニアの誇り (79ページ):
エンジニアリングは道具を生みだすが、その設計者が誇りとするような道具の場合、 どれほどすぐれているかをはかるには、使い手の意識にとけこむスピードを目安にすればよい。
職業上の問題 (80ページ):
エンジニアの立場からいうと、発明者自身には思いもよらなかった用途で使われたときに成功したものが、真に偉大な設計なのである。 たとえば、飛行機やパーソナル・コンピューターがその好例といえる。 偉大な設計は、さまざまな用途を惹きつけ、その結果として、当の発明者が近視眼的な愚か者だったかのように錯覚させるものなのである。

第5章 工学 (エンジニアリング) から科学 (サイエンス) へ

1930年代の MIT の教育方式 - リチャード・ファインマンはこの時代に MIT の学部学生から大学院に進学
学生を現実の世界に、現実の企業に、そして現実の仕事に直接むすびつけるものだった。 その当然の帰結として、理論家や科学者がじっと考えてばかりいることに対する反感が生まれる。 第二次大戦まえの MIT も科学を教えなかったわけではないが、あまり熱意をもっていなかった。
ラド・ラブ = 放射線研究所 (Radiation Lab):
真珠湾攻撃の後に建設されたレーダーに関する研究棟。 当時は「放射線」は軍事的関心をよぶものではなかったので、スパイの目をくらませるためにこの名称にした。
ラド・ラブにおけるレーダーの研究 (92ページ)
問題解決空間をすすむための通常の戦略は、モデルをつくり、それが失敗するのを観察することである。 だが、この「製作とテスト」方式で情報を得られるのは、どれほど見当はずれにせよ、実験モデルがなにか機能したときにかぎられる。 飛びもしない飛行機は、墜落することもできない。 (snip) エンジニアたちはなんどやっても、飛びもしない飛行機のようなものしかつくれなかったのである。
「現実」と「理論」のバランスの逆転:
総体的に見て、物理学者のほうが、おなじように無知ではあっても、エンジニアより高いレベルで知的な取り組みをしていた。 (snip) エンジニアリング史上最大ともいえるチャレンジを目のまえにして、現実家一派は、理論家一派の後塵を拝することになってしまったのである。
コンピューターの発明:
物理的な設計変更なしに、人間がするようにただ指示を読むだけで、(理論的には) 考えられるかぎりありとあらゆる操作を実行できる、 完璧な汎用性をそなえているかに見える機械 ― コンピューターの発明。 指示そのものはだれかが書かなくてはならないし、すくなくとも当面のあいだは、このだれかというのはエンジニアに類する人間に限られるだろう。 しかし、工学史上はじめて登場した純粋に抽象的な分野の専門家は、物理的な部品にまったくふれる必要のない、史上初のエンジニアとなるはずだった。
アラン・チューリング:
計算は「手続き」と「対象 (オブジェクト)」に分けられるが、これらをおなじことばで記述できると、手続きを自己言及的に操作できる。 「一連の数学的な規則の集合」で機械的に解くことのできない数学的オブジェクトのクラスが、すくなくともひとつある。 → コンピューターが、じぶんの命令をじぶんで計算し、計算しなおすことができる。
政府というクライアント (103ページ):
1940年代に MIT が政府から委託されたプロジェクトは、いずれも「ささやかな改良」とは無関係で、政府がのぞんでいたのは、 あくまでも革新的な飛躍 (ブレイクスルー) だった。 たとえば、自分自身を修理できる機械、海水発電、超高速製造プロセス、ロケット、人口視覚 (マシン・ヴィジョン)、 きわめて硬度の高い素材、耐振動技術、耐熱技術、耐衝撃技術、みずから地図を読む戦車、世界中どこへでもミサイルを飛ばし、 任意の所番地に落とす誘導システムといったものである。
科学に「貢献する」:
最高の設備をもつ研究機関がほとんどすべてのレースを制している。 科学の世界に進出し、すくなくともいくつかのレースに参加することを宣言した研究機関は、規模の拡大を覚悟しなければならない。 超最先端の機材の購入や製作や維持に継続的に資金を投入しなければならず、さらにはそれを操作し、維持するための人員にも金がかかる。
ナードの文化:
「ナード」ということばは、部分的には、ひと昔まえのファッションで身をつつんでいる人間を指すものとして、1960年代に生まれた。 (snip) 世間で使われる「ナード」という概念をなす要素のひとつは、他人の感情や神聖な心理状態を読みとり、他人の繊細な神経に敬意を払う能力の欠如である。 典型的なナードは、周囲の感情の変化を察知する能力もなければ、そうする意志ももたない。
MIT における「ナード」:
どんな半端仕事でも完璧にしあげることを強要する「職人ナード」、きわめて興味深いが、まったく立証されていない設計アイデアを追及して、 どこまでも突っ走ってしまう「コンセプト・ナード」、さらには当面の問題を解決するかわりに、そんな問題があったことすらわからなくなるほど、 痕跡をとどめぬまでに消し去ってしまう解決方法を考えだす「抹殺ナード」など。
研究機関への変貌:
MIT は、産業界をおもなクライアントとし、職人的エンジニアをおもな製品とし、じっさいの機械のささやかな改良をおもな目標とする、 安上がりな大学として出発した。そして、純理論的な工学理論への貢献や、さらには「予見的な」プロジェクトをおもな産物とし、膨大な費用の資金源として政府に依存する、 主として大学院を中心とした研究機関へと変貌したのである。

第6章 鉄道模型クラブ

コミュニタス:
アメリカの人類学者ヴィクター・ターナーによって提起された概念で、社会を根底から支える包括的かつ人間的なきずなを強調するもの。
ハック:
(鉄道模型の) リレーの接続を変更し、列車がトンネルに入ったまま出てこないようにして、消え失せたような錯覚をあたえるとか、 レールや部屋全体から妙な音が出るようにするといった仕掛けをつくって、仲間を面白がらせようとする。
クロード・シャノンによる認知プロセスのモデル化:
回路をリレーで接続していくことにより、論理演算を実現できる。 論理記号 (equal, not, and, or) により、意味の流れの分岐点、変換の節点を表現できる。 配線変更に関して、より柔軟な技術としてコンピュータがあった。

コンピューターをカリキュラムに組みこむ必要性 (132ページ) - 1958年の MIT にはプログラミング講座がひとつもなかった。

プログラミングはエンジニアリング・サイエンスか否かということだった。 プログラミングには理論的な基礎があるのか?

1959年頃のコンピューターの位置づけ、コスト (133ページ):

当時のコンピューター・タイムはきわめて高価で、コンピューターにくらべればタダ同然の資源である人間が、独力では解決できない問題 (ふつうは、高い精度を要求される低レベルの膨大な計算処理を要する問題) にしか利用できないほどだった。

ハッカーの出現:

彼ら (注:モデラー) は、マシン・ルームにやってきた人間に労力を提供し、予定より早く仕事を終わらせてあげることによって、 じぶんたちがマシンを使う時間を確保した。 ... モデラーは、じぶんたちのことを「ハッカー」と呼ぶことがあった。 彼らはこのことばを、人生や仕事を茶化すおふざけ屋、おどけ屋という従来からの意味で使っていた。

コンピューターの世界全体にことばが広がるときに、「神童」などを意味するように変わっていった。 マーヴィン・ミンスキーは、個人の自主性と高い業績とのあいだに肯定的な関係があることの証明とみなした。

第7章 MIT製の義肢

単なる加工や組立てに使うことばから「技術革新のことば」へと製図の意義を変えることに取り組み始めた教授が出てきた。 講義に変化をあたえる試みとして、地球とはまったく異なる惑星を設定し、すべてがまったく異質で混乱した環境を設定しおわると、 バス、鍬、エレベーターなどの設計課題をあたえた。

障害を克服する技術の研究をうながしていた人がいた。 前述の地球外工学に比べて、現実の人間の現実的な必要性を背景としている点で、新しいチャレンジとなった。 また、紙の上の設計にとどまらず、実際にハードウェアを製作することもあった。 これによって、問題解決空間の特徴である、カオスと意外性がよみがえることになった。

「時計のことを学ぶには、それを修理するのがいちばんよい」

新しい義足などの市場があるかどうかはまったくわからなかった。 一般的にいって、障害のある人たちは、その明々白々の単純さが保証する信頼性ゆえに、単純で頑丈なロウテク義肢を好む。

「最高の人間と働く」
職場の同僚のことではなく、生物学的な構造にかかわるエンジニアのことである。 (snip) この分野では、エンジニアは自分が設計している道具の使用者と想定されるひとびとの、なまの主観性、定量化できない好悪の感情と直接的にかかわることが要求される。 アクセスの優先順位が、通常はマーケティングによって決定される文化にあっては、これはまれな特権といえる。

第8章 メディア研究所

ニコラス・ネグロポンテのヴィジョン:

専門家の助けなしに、じぶんの家をみずからの手で設計するすがた。 建築素材そのものに知能が組み込まれ、柔軟性がもたらされれば、住人たちが映画館にいっているあいだに、新しい設計に合わせて、 家そのものが自分で自分自身を変形できるようになるだろう。
芸術と情報テクノロジーの結婚:
1970年代終わりの「芸術と現代の制御と通信の技術」という展覧会にて。

二種類のインターフェイス - 「ヒューマン・インターフェイス」の未来

  • 冷たく、よそよそしく、見なれぬ
  • なじみがあり、居心地がよく、あたたかく、かけがえがなく、個人的で、熟知し、愛している
スポンサーシップ:
自力で資金を調達している。 リポート、プレゼンテーション、コンサルティング、視察への接待、あらゆるデモをみる権利など。 5年から15年スパンのテクノロジーの姿を示唆する。 設備に要する資金のほとんど全額を産業界からの寄付でまかなった手腕に対しては、いちように敬意が払われていた。
「バックシート・ドライヴァー」
指定した目的地へいくにはどこをどう曲がればよいかを、音声シンササイザーを通じて指示してくれることになっている、 自動ナヴィゲイター・プログラムのデモ。 コンピューターを使って、人物履歴データベースや地理情報データベースで新聞記事を補足したり、過去の記事などで読者が示した関心の度合いにしたがって、 あらかじめ画面の構成をととのえたり、ユーザーの予定表の項目とその日のニュースをミックスしたり、といったことができるシステムだろう。

第9章 10億分の1 (ナノ) メートルのテクノロジー

リチャード・ファインマンの予言:
理論的には、エンジニリングの活動は、現在 (1959年当時) 考えられているより、 はるかに小さく、とほうもない規模で縮小することができる。 とりわけ、原子数個ていどの大きさの部品を設計し、組み立てることも、物理学的にはまったく不可能ではない。
スタンフォードのエリック・ドレクスラーの予測:
分子工学の重要性は、長期的にいえば、新しい応用分野の開発やコスト削減などではなく、 自動組立て技術がもたらす経済的、社会的影響のほうで実証されることになるだろう。

第10章 技術のスポーツ

学習する機械:
なにかきちんとしたかたちでインプットを一般化できるとか、データの意味を理解できるとか、 データを自力で得ることができるとか、独特の方法でデータを活用できるとか、さらには、 学習をしているという自意識をもてるとか、そういうことが真の学習だというわけである。
迷路を進むマウスの設計:
マウスはできるかぎりすばやく考えねばならず、いっぽうで、できるかぎり総合的に考えねばならないが、 とてもこの両方を実現することはできない。 マウスは軽くなくてはいけないが、同時にさまざまなシステムを搭載する必要がある。 洗練されたものではなくてはいけないが、同時に信頼性が高くなくてはいけないし、時間と資金の制約の範囲内で製作できなくてはいけない。
会場の連帯エネルギー:
ほかのスポーツの応援とは違う。 そもそもチアリーダーなどいないのだから、それも当然だが、軽やかな興奮の波、面白がっている歓声、驚きの声が会場をつつんだ。

第11章 脱コンピューターのシステム

自然の「系」を相手にする場合、時間軸に沿った叙述形式ではとほうもない計算が必要になってしまう。 時間とは無関係な、統計的記述なら不可能ではない。 システムがどれほどの頻度で、ある組合せないしは関係をとるかということの概要なら記述できる。

脳のオペレーティング・システム:
あるシステムの単純で小さなサンプルを研究することによって、そのもとになる大きなシステムを理解できるからこそ科学は進歩する。 だが、このケースでは、そういうものがまったく存在しないのである。 昆虫の脳ですら、あまりにも相互に深く接続し、からみあっているので、ひとつひとつの機能を分離し、別個に研究するなどということはできない。 神経活動の場合、複数の競合する仮説を検証するための「玩具システム」など、存在しないのである。
コンピューターの向き不向き:
プログラマビリティのパラダイムは依然として凱歌をあげつづけていた。 だが、長年にわたって扉にこぶしをたたきつけながら、いまだにまったく成果をあげられずにいる分野もあった。 あらかじめ処理を加えたデータをコンピューターに入力したり、はじめからコンピューターを使うことを前提に環境をととのえるのではなく、 コンピューターを自然界に直接むすびつける分野である。
マーヴィン・ミンスキーが引退後にその仕事をふりかえって:
精神というのは、「意識」などということばから連想するような、単一の、相互に接続された、一貫性をもつものではない。 そうではなく、それぞれが独自の方法論と記憶と目的をもつ、何百もの、あるいは何千もの異なった、「微小な知性 (マイクロインテリジェンス)」が集まり、 おたがいにコミュニケーションをとっているのだということを、立証しようとしたのだ。
プログラマビリティのパラダイム:
コンピューターは、その単一のプロセッサーと、とてつもない柔軟性と、シンボリックで思考に似た言語のおかげで、これまででもっとも精神に近い機械とみなされた。 当然、コンピューターを真の精神と呼べるものにしようとする試みに、たいへんな努力がはらわれることになった。 この試みが失敗したために、あるいはすくなくとも頑強な抵抗にあったために、こんどはこのモデルそのものに疑問が投げかけられることになるだろう。